– ため息の記録のような本 -「東京を生きる」雨宮まみ著

 

ため息やはっとした瞬間の息遣いは記録されることがない。

ため息の瞬間は個人的なごく私的な記憶に「イメージ」として残るものの、往往にして言語化の難しい瞬間だったりする。

地方出身者の著者が抱く東京への憧れと、東京でのリアルな生活の間で着地点を失ったまま大人になりきれない女性の葛藤。アンバランスな危うさを保ったままで東京から受ける時に酷い仕打ちや、それとは逆に打ちひしがれている彼女がふとした瞬間に東京から受け取るギフトたち。

雨宮まみの「東京を生きる」は、そんな瞬間のため息の記録だ。

憧れていたものは、みんな東京にあった。
自分の価値観や、やりたいことさえしっかりしていれば、どこで暮らしていても大丈夫なのだろう。
私にはそういうしっかりしたものがない。なんにもない。だから東京でなければ生きてゆけないような気がする。

東京に来て、私は「お金がなければ、楽しいことなんて何もない」という宗教に入ったのだと思う。

本書に収められているのは、そんな、日常にふと現れたあるシーンに対しての著者の個人的な解釈だ。けれども、その個人的な解釈こそが本質的なものだと思わせるだけの説得力が彼女の文章には、ある。確実にある。

それは拡声器を通して声高に叫ばれる「世間体」だったり、「現実」というプロパガンダとは真逆の、声にならない著者のごく私的なため息の記録たちだ。

 

ほんものの美にひとが打たれる瞬間を、見たことがある。

 

著者はageHaでポールダンサーの踊りを目の当たりにして、雷に打たれたようになった女の子から目が離せなくなる。

 

その子の気持ちは、痛いほどわかる気がした。
彼女は今、はじめて「ほんとうの美しさ」を、見たのだと思った。
生まれ持ったスタイルや顔ではなく、ダイエットや化粧による補正でもなく、ましてや男に受け入れられるための装いやふるまいでなんかあるはずのない美しさ。
本来持っていたものではなく、自力で勝ち取った美しさ。(中略)
そのような美しさのありかたを、彼女は今、初めて見たのだろうと思った。心が震えているのがわかった。

 

ある時は雨の日の夜のタクシーでフロントガラスに滲む鮮やかな光を買いたいと思い、またある時は藤圭子の歌うマイ・ウェイを聴いて私のための歌だと感じる。
六本木に美しい女が生まれる理由を看破したり、洗濯機から溢れ出した孤独にライターで火をつけて燃やしてやれば祝祭のようだと想像する、その一方で、同じ洗濯機の中の暗闇で丸くなって眠りたいと思ったりもする。

 

東京タワーのオレンジ色に私は祈る。
何を祈っているのかは、わからない。

雨宮まみは、わからないけれども祈る。わからないからこそ祈る。

the yellow monkeyのpearlという曲ではないけれど、散らばったスパンコールを拾い集め回っているようなキラキラした徒労感がある。拾い集めたスパンコールのかけらを必死で縫い上げたようなチグハグさがある。

そんな雨宮まみという人の率直なチグハグさが、キラキラした徒労感が、ため息のように文章から漏れ出してくる。チグハグなスパンコールを纏った文章は、やっぱりため息の記録だ。

読んだ後にため息がでる一冊。

東京を生きる

チョムスキーでコーヒーと共にどうぞ。